幻の筆

日本画用の筆で「則妙筆(そくみょうふで)」というものがあります。

彩色をするのは彩色筆で・・・と思っていらっしゃる方が多いと思いますが、
彩色筆に岩絵の具を含ませると穂先が太くなってしまいコントロールが効きづらいことがあります。
本来則妙筆は線描き用ではありますが、
その使いやすさを好んで多くの画家が則妙筆で色を塗っています。

則妙筆は猫の毛を命毛(芯にする毛)にし、複数種の羊毛を巻いてつくります。
猫毛は余計な綿毛を取り去る作業がたいへんで、
筆にするまでに原毛の1割以下に減ってしまうのですが、
その弾力の強さは他に類を見ないそうです。

さて、すでに故人となってしまいましたが、かつて入山初太郎さんという筆職人がおられました。
入山さんは命毛に猫毛の長いものを選んで用い、その筆は腰がありながら穂先がしなやかで、
のどまわし(穂先を使って円を描くような筆法)が良く効くのです。
そして何といっても穂先が鋭く揃い、本来線描筆として作られる則妙筆の神髄とでもいうべき描き味を感じます。
筆や刷毛はどんな品質のものであってもいちおう絵を描くことはできますが、
思ったような表現をするために余計な神経を使わずにすみ、描きやすいものが良品です。
入山さんの筆はまさにそういった名品です。
(このコラムのトップ画像が入山さんの作った則妙筆)

入山さんは東京都荒川区の町屋(かつては筆の町と呼ばれました)に生まれ育ち、
父上の家業を継いで筆職人になりました。
画家が使いやすい良い筆を作ろうと生涯努力を重ね、
私の師である松尾敏男先生のところへも、
「良い筆ができたと思うので使ってみて欲しい。勉強だからお代はいりません。」
と訪ねて来られたそうです。

日本画用の筆は岩絵の具を扱うことから、まるで紙やすりの上を擦るような過酷な使い方を余儀なくされるにも関わらず、
絵の具の降りや含み、毛質の良さなど高度な品質を求められる画材です。
しかし天然の獣毛の入手しづらさや筆職人の高齢化・後継者不足により、行く末が危ぶまれる産業のひとつとなってしまいました。
入山さんの作った筆はもはや「幻の筆」なのでしょうか。