今回は光を描くことについて考察します。
小学生などの絵では春の日差しを描いたりするときに、絵の具やクレヨンでささっと線を引き、
空から降り注ぐ陽の光を表現しているものがあります。
光という、形態的に表現しづらいものを感覚的にとらえて絵に表すその手法は
絵画の本質として素晴らしいことです。
つまり、人が感じた印象を具体的な絵の具や画材の表現に置き換えて描くこと。
写真を見てそれをなぞるかのごとく描くのではなく、感性を主軸に据えて描くことこそ絵画の存在意義なわけですから、
光をささっと線で表現していることは大いに肯定できるわけです。
でもこのコラムを読んでいる皆さんはそういった表現方法を期待しているわけではありませんよね?
もっと「大人っぽく」「じょうずに」見えるように描きたいと思っておられるでしょうか。
日本画を描いている方の中には、画面上方から白い絵の具でボカシをかけ、光を表現しようとする人もいます。
クレヨンの線で表現するよりも少し大人っぽくなりますね。
けれども本質的にはあまり変わりがありません。
光自体は目で捉えにくい
我々人間は物を見るときに、太陽や人工灯によって発せられた光線が
物体に当たって反射してきたところを目で感じ取って形態を認識します。
光を発しないはずの月が、太陽の光を反射して輝くのを見ていることと同じですね。
夕暮れの空から差す陽光を見ている気がしてもそれは光そのものを見ているわけではなく、
太陽光線によって照らされた空や雲、地上の情景を見て「ああ夕陽が美しいな」と感じているのです。
「雲間からくっきりとした線として降り注ぐ日差しを見たことがある」とおっしゃられてもそれは、
雲によって寸断された光が大気中の水蒸気に乱反射して線状に見えているのです。
つまり、光によって起こされるそういった現象を克明に描写できれば、光を描いたと言えるわけです。
窓から差しこんでいる光を描きたければ、テーブルの上の花瓶がその光線を反射している様子、
あるいは逆光でシルエットのように見え、テーブルに影を落とす様子をとらえる。
または窓の明るさに対してその周りの壁面がどのくらい暗く見えるか。
そういった現象を的確に観察して表現するのです。
厳密に言えば、人間の目が認識できる限界の暗さから限界の明るさまでの範囲・・・
「ダイナミックレンジ」より、画用紙に表現できる明暗の範囲のほうがずっと狭いので、完全な再現はできません。
だからこそその制約が、リアルな表現と一線を画した絵画的表現の要素のひとつとなるわけです。
水も現象を捉えて描く
同じことが水についても言えます。
透明な水は、それ単体を目で認識することがたいへん困難です。
水たまりやコップの中の水は見えるじゃないかと思われるかもしれませんが、
それは水の表面の反射や屈折効果によって向こう側や周囲の光景を通常とは違った見え方で表しているので、
そこに水という異物があることを認識できるのです。
プールの水も揺らぎながら水底のラインをゆがめ、表面に映り込む周囲の光景もゆがめて見せます。
それらの現象を捉えれば水を描くことができます。
それ自体を描くのではなく、周囲の状況を描くことでそのものを表現する間接的な手法はたびたび絵画で使われており、
例えば風景や部屋の中を描くときに、人物を描かずともその気配を感じさせるといった絵は、私は大好きです。