「小さい頃から絵が好きだったのですか」
と聞かれることがよくあります。
確かに物心ついた頃からなんだかんだ落書きを楽しんでいた記憶があります。
父に「多摩美とか武蔵美に行くか?」
などと冗談半分で言われたのはおそらくまだ幼稚園か小学生くらいの頃だったのでしょう。
「行かない」と答えた自分は、そんな年齢なのになぜか美術大学の名前を見知っていたのだと思います。
アニメ・マンガブームの潮流ただ中で
私が幼い頃は、地方はまだまだ情報が行き渡らず、
わずかな漫画本や雑誌の絵を見ながら子供向けキャラクターを描き写したりしていました。
小学校高学年のとき手塚治虫氏の「漫画大学」という本を手に入れ、
そこで紹介されている通りにGペンやインク、ケント紙を買って漫画家の真似事を始めました。
折りしも空前のアニメブームが始まった頃で、宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999に入れ込み、
松本零士氏のような漫画家になりたいとあこがれるようになったのです。
人生を大きく揺り動かされたきっかけでした。
高校生になると31ページの読み切り漫画を描き、東京の大手出版社に原稿を持ち込んで批評してもらったりしていました。
年端もゆかない田舎の少年でしたが、新人発掘に熱心な編集者の方々は懇切丁寧に指導してくれたものです。
紆余曲折の末、美術部に
高校では当初から美術部に所属したのではなく、初めは水泳部に入部したのでした。
漫画家やアニメの仕事に就きたいという想いは持ち続けていましたが、
先輩から声がかかったことで、得意な水泳で一旗揚げてやろうと思ったのです。
初日の練習を終えて帰宅すると両親に、運動部に入ると勉強ができないからと猛反対され、
泣く泣く1日で退部し、でも結局1年間はたいしたこともせずぶらぶらしていました。
2年生にあがったときになぜか合唱部に誘われてしまい、困った私はそれを断る口実も兼ねて、
どうせならと美術部に入部したのでした。
美術部では先輩たちが美大を受験すべくデッサンを繰り返していました。
そういった日々の鍛練と、長期休みには東京の予備校の講習会を受けることで
美大への門戸が開かれるということを初めて知りました。
美術大学が漫画家への道を開いてくれるのではないかと思った私は、
美大のデザイン科を目指すことにし、高校3年生になる春休みに、東京の美術系予備校の講習会を受講したのでした。
その後高校の美術の先生のアドバイスもあって、夏休みには同じ予備校の日本画科の講習会を受講することになりました。
日本画の何たるかも知らずに、漫画家になりたい一心で日本画科の受験競争に身を投じたわけですが、
予備校の夏季講習では自分がいかに井の中の蛙であったかを思い知らされたのです。
その年の現役での美大受験は念願かなわず、苦しい浪人生活を送ることとなったのでした。
