「故郷の恩」後編

・・・前編から読み直す

漫画家になりたかった

 ずいぶん話がそれたが、私自身のことに戻ろう。
物心ついた頃から絵を描くのが好きだったのかもしれないが、テレビで観た「宇宙戦艦ヤマト」の衝撃が自分の人生を変えてしまった。
それまで「テレビマンガ」という言葉で片づけられていたものが「アニメ」という地位を得、大ブームを巻き起こしたご存知のシリーズである。
原作者の松本零士氏にあこがれて、親にねだってGペンやらケント紙やらを買い込み漫画家の真似事を始めた。

当時はインターネットもあるはずがなく、漫画の描き方を学びたくとも地方では情報が少ないゆえに、
お年玉を使って通信教育を受けたり、ひどいときには出版社に電話までかけてわからないことを教えてもらったりしたものだった。
漫画家を目指す夢は次第に膨らみ、ひとりで電車に乗れるようになると、描いた三十一ページのストーリー漫画を抱えて東京の出版社を訪ね、
編集者に批評してもらうこともあった。
現実の厳しさを知らない地方の少年が大それた夢を抱くことのできる余裕が社会にもあったのだろうが、
そんな生き方を許された小諸での暮らしが今ではありがたい。

中学校生活

 中学校ではほとんどの生徒が運動部に所属していたので、自分もはじめは卓球部に入部した。
たまたま顧問のS先生は美術が専門だったのだが、当時はあまり絵について語らい合う機会がなかった。
が、実はS先生は頭の下がるような創作活動をずっと継続されておられたのだった。
それについては文末でご紹介したいと思う。

高校生活

 進学した野沢北高校は自由な校風で、二年生になると皆私服で学校生活を送るようになった。
特に美術班に所属する我々などは風変わりなカットに仕立てた髪形で、画材を放り込んだズタ袋と共に、
自分たちは他と違うんだという青臭いプライドを背負って夜遅くまで美術室に入り浸るようになる。
 まるで根城となった美術室では、時に昼の弁当がわりに近くの食堂からラーメンを出前させたり、
決められた下校時刻を過ぎてもカーテンを閉め切って、小海線最終電車の時間までこっそり石膏デッサンを続けたり。
今振り返れば可愛いルール違反なのだが、それを黙認してくださっていた当時の美術教師は、
奇しくものちに私が通う多摩美術大学の油彩画科を卒業されたY先生という方だった。

 Y先生は年のころ四十過ぎだったろうか。ぴかぴかに磨いたパイプをくゆらせ、
芳しい香りを漂わせながら挽いた豆で珈琲を淹れては研究室で油絵を描いておられた。
シュールレアリズムに傾倒されていたということで、サルヴァドール・ダリを彷彿とさせる緻密なリアリズムで幻想的な小品が、
描きかけのままイーゼルに掛かっていた。
先生は寛容だが時に厳しく、しかしお宅にお邪魔したときなどは幼いお嬢さんを抱っこしながら
「自分の子供はほかと比べようもないくらい可愛いぞ。」とおっしゃる、子煩悩な良き家庭人だった。

漫画家への夢から日本画家へ

 漫画家になるために美術大学のデザイン科で学びたいと考えていた私に、そのY先生が
「君は細かく描くのが好きなんだから、日本画科に進んだらどうか。漫画を描くために必要な描写力も身に付くと思うが。」
とアドバイスしてくださったひと言が、自分の将来を決める決定打になった。
 運良く一浪で合格できた多摩美術大学では松尾敏男先生に教えを受け、日本画の公募展である院展に出品し始めた。
温厚な松尾先生の的確なご指導は、ただ絵が好きなだけの少年を、院展で何度も賞を頂くまでに成長させた。
漫画家になりたいという少年時代の志はいつの間にか潰えたが、お世話になった恩師たちや故郷に培われ、
夢が形を変えて脈々と自分の中で生きていることを感じる。

 さて、前段で触れた中学校の美術のS先生だが、私が長野市で個展を開いた際に再会し、以来交流を続けさせていただいている。
そんな中で初めて知ったのだが、先生は須坂市で奉職中の十七年間、毎日風景のスケッチを繰り返し、
それが一万枚にも達したのだそうだ。平均すると一日に一枚以上という計算になる。
雨の日もあっただろう。仕事が忙しかったり体調のすぐれない日もあっただろう。毎日描き続けるということは簡単に思えて実際は大変尊い行為だと思う。
先生は何事もないように「ただ好きだから。描かないと気持ち悪いから。」とおっしゃる。
だが、有名になりたいとかお金を儲けたいという動機でなく、唯々無欲に描き続ける先生の姿に心を打たれた。
 先生は今でもお元気で毎日描き続けておられる。帰省の折りにはまたお目にかかりに伺うつもりである。

「故郷の恩」終わり
(内容は2018年時点のものです)