初入選 その1

〜1枚のCDが方向を決めた〜

今回は私が院展に初入選するまでのことを書きます。

多摩美術大学に在籍中、ほかの美大生の多くと同じように
自分は何をどう描いてゆくべきか、方向を模索する時期がありました。
日本画最精鋭の公募展である院展に応募を始めたもののすぐに入選できるはずもなく、焦りも感じていたのです。

ハードロックがきっかけで登山を始める

当時からよくハードロックを聴いていて、大好きなバンド「レインボウ」のキーボード奏者、
ドン・エイリーのソロアルバムをたまたま買ったのです。
タイトルは「K2」、世界で2番目に高い山のことですね。
1986年にこの山で大量遭難事故があり、その悲報に触発されたドン・エイリーが
追悼の気持ちを込めて作ったコンセプチュアルアルバムです。
自分もまたそのアルバムを聴いて感動し、いつかK2に登る・・・のは無理でも
壮大な山岳の厳しさや、それを踏破しようとする人間の気高さを描いてみたいと思ったのがきっかけで
山登りを始めました。

K2のCD
ドン・エイリーのアルバム「K2」

素人がゼロから始めるのですから、最初は友人に用具を借り、
陣馬山や丹沢といった近場の山から始めて、次第に北アルプスにも足を伸ばすようになりました。
そんな北アルプスの涸沢でたまたま、近年まれに見る美しさといわれた
見事な七竃(ななかまど)の紅葉に出会い、感動を覚えつつ写生したのでした。

北アルプスの涸沢にて
北アルプスの涸沢にて

春の院展に初入選

翌1992年の春の院展ではその七竃の絵「高山の秋」を描いて出品することを決め、
出来上がった作品を自分で審査会場に搬入しました。
そこでたまたま会った友人が私の絵を見て
「これ、入選するかもしれんな」と予言めいたことを言ったのです。
予言通りその作品が記念すべき初入選となりました。
気持ちがこもることによって作品に力が宿されることを知った初めての体験だったかもしれません。

山登りを始めてまもなく、ヒマラヤに行くチャンスがやってきました。
友人と共にヒマラヤの「カラ・パタール」という、エベレストを望む丘までトレッキングすることになったのです。
丘とはいっても標高5,545mもあり、富士山よりずっと高く空気の薄い場所です。
トレッキング中、ヒマラヤの山奥での人々の暮らしや壮絶な景色に心を打たれながら何枚も写生をし、
帰国すると、師である松尾敏男先生が
「ヒマラヤまで行かずとも、描くべきものは身近にいくらでもあるでしょう」
とおっしゃったのです。
遠いところを目指しながらそこへたどりつこうとすることが制作への思いを高めると信じ込んでいた自分に、
もっと足元を見つめ直しなさいという指摘だったのでしょう。
「絵描きの目線」というものを深く考えさせられたひと言でした。

涯
ヒマラヤでの写生をもとに描いた作品「涯」

そんな言葉が心に残り、大学院の修了制作では自分の乗っていたオートバイを描き、
講評会で教授の先生方から高い評価をいただきました。
その絵をアレンジしなおして秋の院展でも初入選をすることができたのです。

秋の院展の入選については次の回に書きます。

・・・その2へ続く