絵はじょうずに描けなくてよい

「絵がじょうずに描けたらどんなにか良いだろうか」
誰でも思うことでしょう。私だってそう思います。

でもいったい「じょうずに描く」というのはどういうことでしょうか?
本物そっくりに描けること? あるいは自分が思ったように自在に表現できること?
そういったことを含めて、他人が、あるいは描いた本人がその絵を見たときに、
感心したり納得できるような絵だったらおそらく満足するのでしょうね。

じょうずに描くには

本物そっくりに描こうとすることの無意味さ(あえてそう言います)はあとで述べることとして、
じょうずに描くことができるようになるには相応の経験が必要です。
クルマの運転に例えれば、教習所で
「クラッチを踏んで、ギアを入れて、アクセルを踏みながら半クラッチを繋ぐ」
と教わっても、頭ではわかっているのに体が動かずエンストを繰り返してしまうことと似ています。
つまり、体が自然に動くようにならなければ絵だって自在に描けるわけはありません。
だれだって最初は思うように手が動かず、美しい線も引けません。
最初からできたらそれは天才中の天才か、異星人でしょう。

絵がじょうずな人のほとんどすべてに共通することは、絵を描くのが好きなことです。
幼い頃から何か描くことが好きで、いつも何か描いている。
人より多く何枚も何枚も描くうちに、嫌でもうまくなってしまい、
それを人から褒められると嬉しくなってさらに描きたくなる・・・
ということでしょう。
しかし絵が苦手と思う方は、人生のどこかで挫折感・・・
つまり自分は絵がへたなのだと思い込まされる不幸な体験があったことと、
絵がへたなことが「悪」であるという価値観を植え付けられてしまったからでしょう。
たとえば小学校の図工の授業で、とても絵のうまい同級生がいて
その作品と比較して劣等感を覚えたり、先生のひと言に傷つけられたり、という経験がなかったでしょうか。

小学校は絵描きを育てる機関ではありませんから、絵をうまく描かせる教育は必要ないはずですね。
図工という教科は、算数や体育といった教科と同じように
人生を乗り切ってゆく能力を育むために用意された教育ツールです。
それについてはあらためて別のコラム「未来の日本文化の担い手のために」でお話いたします。

なぜ本物とそっくりに描く必要がないのか

本物そっくりに描こうとすることが無意味だと書きました。
本物と同じに描くことにどれだけの意味があるのでしょうか。
カメラがなかった時代はそういった技術も必要とされ、存在価値があったかもしれません。

絵は音楽や詩などと同じく、人間の持つ表現手段のひとつです。
音楽を聴いて「本物とそっくりである」と褒める人はいません。
詩を詠んで「本物と違う」と非難する人はいません。
“表現が優れている、いない” という観点はありますが、
じょうず・へた は、本物と同じに再現できているということとは意味が違います。

絵は描き手の心が画面に表れれば良いのであって、
それは描き手が気持ちを込めていれば必ず画面から感じ取れるものです。
私の経験上で言えば、カルチャーセンターの教室で絵を学び始めた方が、
何枚かの絵を完成させたときにそれらを並べてみたら
最初の1枚目がいちばん良かったということはよくあることです。
初めて描くということで緊張もしたでしょうが、講師の言うことを良く聞き、
やる気に満ちあふれて描いた気概が表れたのです。
じょうず・へた ということとは関係がないですね。

じょうずでなくとも、心に響く作品の例はほかにもあります。
たとえば幼児の描いた絵もそれです。自身の子供の描いた作品に感動する・・・
我が子の描いた1枚の絵からさまざまな思いが誘発されて感動するわけです。
これもまた じょうずに描けているから ではないですね。

では、じょうずに描こうとするのではなく何を目指せばよいのか。
次回のコラムで続きを書きます。

コラム続き「絵は気持ちで描け!」