私たちは日本画を制作する前に必ず写生をおこないます。
写真を撮ってそれを模しながら描くことはありません。
写真を見ながら描けば、めんどうな写生などせず簡単に日本画の制作に入れるのに、なぜでしょうか。
写真で撮ったかのようにリアルに絵を描くことがナンセンスであるのはこれまでのコラムで再三述べてきました。
でも、写真を見ながらそれと同じように描くのでなければ話は違うでしょうか?
リアルな絵でなく、たとえば抽象画だったりイメージ画であるならば?
絵はさまざまな表現手段のひとつ
以前も述べましたが、絵は、ひとが心で感じたことを表現する手段のひとつです。
音楽や詩、小説などと同じですね。
ですのでそれらの表現の中には制作した人の心情や意図がこもっていなければなりません。
絵は視覚に依存する表現方法ですから、作者が目で見たものが、作者の感性のフィルターを通り、
鑑賞者の視覚にどう伝わるかが本質でしょう。
視覚だけに依存しているわけではない
皆さんも経験があるかと思いますが、
旅行などに行っていっぱい写真を撮っても、撮ったことで満足して
それらを何度も見返したりしないことがあります。
しばらく経ってから写真を見ると、どの場所だかわからなかったり、撮ったことさえ忘れていることも。
でも写真を撮らず、たとえ数分であったとしても立ち止まりスケッチブックに描き止めた風景は、
あとで見返したときにそのときの印象が強く蘇ってきます。
暖かかったなあ とか、その日にちょっとつらいことがあって沈んだ気持ちで描いていたなあ とか。
絵は視覚に依存すると述べましたが、それはあくまでアウトプットの部分でです。
インプットの部分では、対象物を目で見ると同時に、
描いている間に無意識ながら視覚以外の五感でもいろいろと感じ取っているのです。
それこそが人間の感性であり動物的本能なのではないでしょうか。
対象物を理解することが写生
写生するときには必ず対象物との対話が生じます。例えばですが、
「なんだ、ずいぶん細かくて難しいな。ここどうなっているんだ」とか、
「あ、こんなところから小さな蕾が出ている」とか。
写生するためには対象物をよく見なければならなくなりますし、対象物をよく知り理解することこそが写生の目的です。
手を動かすことで当然、描写や表現も上達します。
別のコラムでも書いていますが、私の師匠は矢立を用い筆と墨で写生されることがありました。
なぜ鉛筆で描かないのかと尋ねたことがあります。
師は、「筆と墨で描くと間違えたときに直せないでしょう? だから良く見るようになるのです。
よく見るためにこうしているのです。」
と答えてくださいました。
たまたまみかけた人物を、その一瞬の印象から人柄や雰囲気をくみとることは難しいですね。
写真を撮るということはその一瞬を切り取るということです。
その人の生き様のうち偶然のひとときから人間を推し量るのは間違いのもとで、
それならばむしろ、その人物が投稿し続けているSNSの文章や画像を追いかけ続けて
人となりを想像するほうが、よっぽど人物像を理解できるかもしれません。
それならば、対象物を理解できさえすればわざわざ紙に描き留めておかなくても良いということになりますね。
現に島崎藤村らは文章で写生をおこなっていたのですから。
言葉を書き連ねた写生ができるなら文学者にさえなれるかもしれません。
でも私たちは絵描きですし、スケッチブックに描き留めておかないと忘れてしまいます。
ただし、スケッチブックに描くことに加えて脇に備忘のメモ書きを添えておくことがあります。
くどくどと理屈を述べましたが、
結局のところ私たち絵描きは絵を描くことが好きなんですね。
何かとスケッチブックを開いて描き留めずにはいられないだけのことです。
写生は(ときに本画もそうですが)麻薬のようなもので、
出来不出来はあるものの描き切った充実感を味わうと、
またそれを繰り返したくなるものです。
「上手だから描きたくなるんでしょ」とよく言われますが、
「上手でなくても楽しむことができる」ことがわかれば同じことです。