芸術や美術は社会にとって必要か

「芸術や美術は社会にとって必要か」と問われたら、
私は〝必要ない〟と答えます。
自分が絵を描いているのは好きだから描いているのであって、
社会から求められているからではありません。
社会のほうから絵描きが必要であると思ってくれるのなら別ですが、
自分から必要であると主張することはないのです。

文化の発展

人間を含む生物の根本的な生存意義は種の継承であり、子孫を残してゆくことですね。
それが確立できたならば今度は多くの食糧を摂取して家族や仲間を増やし、種を繁栄させてゆくことを目指します。
知能も発達した種族であればその先は経済的に豊かになることを追求し、心豊かになる娯楽や趣味を持ち、
文明文化を発展させることでしょう。
人類も、特にヨーロッパの国々などは長い歴史の中でまさに大きな成長と豊かな文化の発展を遂げてきました。
首都は目を見張るほどの芸術品にあふれ、それらを鑑賞するために世界中から人々がやってきます。
そのように経済的、精神的に発達した社会ではおのずと芸術や美術が必要とされて発展し続けているわけです。

さて、我が国はどうでしょう。
中世以来の独自の伝統文化や芸術は、それを愛好する人の減少や経済的な理由によって斜陽化し、
バブル期にもてはやされた近代の美術も今では見向きもされません。
学校教育の現場でも図工や美術はまるで邪魔者扱いされるがごとく隅っこに追いやられて、いまや風前の灯です。

たとえばF1レースでも

話は少し飛びますが同じ観点で。
モータースポーツ、特にF1レースは工業技術の粋を尽くして争われる最高峰の競技です。
私たちが普段乗る市販車ではまったく体験できないような300km/h越えのスピードや強大なGを発生させますね。
レース中のピットインでタイヤを交換する作業など、いまや2秒を切る最速記録を持つほどの早業です。(2021年現在)
そのマシンの開発やレースの開催に莫大な費用がかかるのも当然です。
でも世界中には多くのファンがいて勝敗のゆくえを見守っているため、
競技に出場する自動車メーカーも威信をかけて多くの費用と人材を投入するわけです。
ヨーロッパの自動車メーカーにとってF1に出場して勝利するということは最高の名誉であり、
アイデンティティの源でもあります。
日本の自動車メーカーもF1に参戦した経験がありますが、参加したりやめたり、
そのときの都合でころころ変わってしまうのです。
たとえばフェラーリだったら、費用がかかるから参戦をやめると言うでしょうか。
ルノーが、勝てないからもうやめたと言うでしょうか。

結局日本は余裕のない貧しい国なのですね。

このような考えについてはさまざまな異論もあろうかと思います。
が、少なくとも自分にとって絵を描くということは、求められるから描くのではなく自分がやりたいからやっている。
それを社会が求めるのか、どのように評価するかは第一義ではないのです。